10 しかし、差し当たり私たちは、モーセの偉大さを見ることにしましょう。彼は、代を去るに当たって、民に指導者を準備してくれるように祈っています。モーセよ、あなたは何をなさるのですか。あなたには、ゲルショムとエリエゼルという息子たちいるではありませんか[1]。それとも、あなたは彼らについて何かを疑っているなら、(あなたの)兄に、偉大で傑出した男児の子らがいないのですか。どうしてあなたは、彼らのために、彼らを民の指導者として立てるように祈らないのですか。しかし、諸教会の頭たちは次のことを学びます。すなわち彼らは、一族の血を共有する点で結び付く者たちや、肉の近さによって結び付く人を、遺言によって自分たちの後継者に指名すべきでなく、また、教会の指導権を遺産に関わるものとして残すべきないこと、むしろ神の判断に帰すべきで、人間的な感情が推す人を選び出すべきではなく、神の判断に、後継者の選出の一切を委ねるべきだということを学びます。

そもそもモーセは、真の判断と正しく真っ直ぐな考えとによって民のために頭を選び出すことができなかったのでしょうか。神は、彼に向かって次のように言っていましたのに:「あなたは、(彼らこそ)長老たちであるとあなたがみずから認める人たちを、民のために長老たちとして選び出しなさい」と。そして彼がそのような者たちを選び出すと、続けて彼らの内に神の「霊が安らぎ、すべての者たちが預言しました[2]」。ですから、いったい誰が、モーセができたのと同じように、民の頭を選び出すことができたでしょうか。その人はしません、選び出しません、敢えてしません。なぜその人は敢えてしないのでしょうか。それは、その人が後の人たちに、僭越の前例を残さないようにするためです。しかしあなたは、(モーセが)何と言っているかお聞きください:「諸々の霊と一切の肉との神である主が、この会衆の上に人間を――彼らの前に出入りし、彼らを連れ出し連れ戻す人間を――準備してくださいますように[3]」と、彼は言っています。ですから、かくも偉大でかほどのモーセが、民の頭の選出について、後継者の擁立について、自分自身の判断に頼らないとすれば、いったい、民衆の中から――――彼らはしばしば諸々の叫びによって、おそらく恩恵や報酬のために興奮して、動かされることを常とする――、あるいは司祭たちの中からでさえ敢えて(頭を選出)する人が誰かいるでしょうか、そのことのために自分が適任であると判断する人が誰かいるでしょうか――祈り懇願する彼にそれが、啓示されるのでなければ。



[1] Cf.1Ch.23,15.

[2] Cf.Nb.11,25.

[3] Nb.27,16-17.     

 

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