12 しかし、ありとあらゆる事柄が諸々の神秘的な事柄を詰め込まれているので、より貴重な諸々の事柄を省略することは、私たちにできません――たとえ文字に即して命令される諸々の事柄が必要で有益であると見られても。ですから私たちは、モーセの死が何であるかを考察してみましょう:すなわち、それは疑いもなく律法の終わりですが、文字に即して言われる律法の終わりです。では、その終わりとは何でしょうか。それはすなわち、諸々の生け贄と、律法の中で同様の観点で命令されているその他の諸々の事柄の途絶です。それらの事柄が終わりを受け入れるとき、イエスは命令権を受け取ります:「実際、律法の終わりは、一切の信者の義のためのキリストです[1]」と。そして、以前の人たちについて、「すべての人はモーセにおいて、雲の中そして海の中で洗礼を差づけられました[2]」と言われていたのと同じように、イエスについても、「すべての人はイエスにおいて、聖霊と水の中で洗礼を授けられた[3]」と言われるはずです。実際イエスは、ヨルダンの諸々の水を過ぎ越しました[4]。そして彼は、当時、既に、それらの水の中である意味で洗礼を授けました。実に彼こそ、嗣業の土地を、聖なる土地をありとあらゆる人たちに配分しますが、以前の民にではなく、第二の民にです。なぜなら以前の民は、みずからの共謀のゆえに「荒れ野の中で倒れた[5]」からです。イエスの諸々の時について、「土地は、諸々の戦いから離れて静まった[6]」と言われています。しかしそれは、モーセの時については言うことができませんでした。そのことは、あのヌンの()ヨシュアについてではなく、私の主なるイエスについて言われます[7]



[1] Rm.10,4.

[2] 1Co.10,2.

[3] Cf.Jn.1,33.

[4] Cf.Jos.3,15s; 4,10s;訳者(朱門)は、直訳している。「ヨルダンの諸々の水」は「ヨルダン川」のことである。

[5] Cf.1Co.10,5.

[6] Cf.Jos.11,23.

[7] 省略

 

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