それらの事柄が、歴史に関する限り、効力の何がしかを持っていることは、それらの律法がイスラエルの子らの許で守られるばかりでなく、諸々の律法の許に生活するすべての人々の許でも守られていることを知っているすべての人には一目瞭然です。ここから、ツェロフハドの娘たちの自由な大胆さが、彼女たちに嗣業地をもたらしたばかりでなく、生活上の永続的な諸権利をも代に与えたことは、明らかです。あなたは、神の律法における歴史それ自体の有用性がどれほど大きいか、ご覧ください。全世界が利用するそれらの律法をいったい誰が、いつか廃止できるでしょうか。

しかしながら私たちは、さらにどのようにすれば私たちが建徳されるか探求しましょう。実際、肉に即した娘たちが私におらず、嗣業地として残すことのできる農地の何がしかも私にないことも、あり得ます。すると、どうなるでしょうか。このような状況にある人の許では、その律法は何も働かないのでしょうか[1]。そして、神的な声によって裁可された事柄は、ある人たちにとっては無駄になるのでしょうか。そこで私たちは、霊的な律法の許では、それらの五人の娘たち――彼女たちの父は、たとえ何らかの罪のゆえに死んだとしても、彼女たち自身は神のみ言葉によって嗣業地を獲得します――が何であるかを探求しましょう。



[1] 訳者(朱門)は直訳している。

 

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