前の諸々の箇所において、私たちが霊的な娘たちについて扱ったとき、私たちは、魂の諸々の力と精神の理解が娘たちと言われると教えました[1]。疑いもなく、身体の奉仕を通して成し遂げられる諸々の業を娘たちとして受け入れることも、必然であり適切であると思われます。それゆえ、五という数字がそれら()に帰されています[2]。なぜなら、身体における一切の業が成し遂げられるのは、身体の五つの感覚によってだからです。ですから、それらの五人の娘たち、すなわち、諸々の業の完成は――たとえ彼女たちが父を亡くして、孤児のままであっても――嗣業地から投げ出されませんし、み国から排除されません。彼女たちは、神の民の只中で、嗣業地の分け前を受け取ります。

他方、「自分たちの父は死んだ[3]」と言われている彼女たちの父が誰であるかを、私たちは見てみましょう。「ツェロフハド」であると(聖文書は)言っています。しかし、「ツェロフハド」は、「彼の口の中の影」と解釈されます。諸々の業の父は、知性です。ですから、よくあることですが、私たちの兄弟の少なからぬ人たちの内に、より高くより深い知性がまったくありません。或る人たちについて、「彼の心は、彼自身の中で死亡した[4]」と書かれているように、彼らの中では、理解力が死亡しています。ですから彼は、たとえ霊的理解において何一つ理解せず、死亡しているとしても、もしも彼が娘たちを生んだなら、すなわち、奉仕の諸々の業、諸々の従順の諸々の業、神の諸々の掟の諸々の業を行ったなら、彼は、神の民とともに、(約束の)土地の嗣業地を獲得するでしょう。もちろん彼は、「彼らの取り分は主であり、彼らの嗣業地は神である[5]」と言われている人たちの間で数えられることはあり得ないでしょう。彼は、奉仕者たちと祭司たちの数の中に受け入れられないでしょう。しかし彼は、民の地位の内に約束の土地の嗣業地を受け取るでしょう。実に「多くの人たちが呼ばれた。しかし選ばれた人たちは、少ない[6]」。



[1] Cf.Hom.Nb.XX,2(拙訳)を参照せよ。

[2] Cf.Hom.Nb.V,2,2; Philon, De Plant.133.

[3] Nb.27,3.

[4] 1S.25,37.

[5] Cf.Dt.32,9.

[6] Mt.22,14.

 

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