他方、「父の兄弟」と(聖文書が)名づける第四の(順位の)人は、おそらく、父祖たちから聞き、古い人たちの物語から受け取った諸々の事柄を成し遂げようと努力しますが、自分自身の諸々の理解によって動くわけでもなく、現在の教えの諸々の刺激によって奮起したわけでもなく、ただ古い人たちの伝承や習慣に仕向けられただけで善の何がしかを行います。ですから、或る協約によって彼らの近親者になった人が、順位の最後の人として書かれるます。それはつまり、次のように言うようなものです:すなわち、随時にであれ、教えの真理によってであれ、もしも人が善の何がしかを行ったなら、善い業の報いが失われることはないでしょう。しかしその人は、主の寛大な御恩によって、嗣業の土地を受け取るでしょう。以上の諸々の事柄は、私たちによっておそらく大胆に推測され、公に表明されたように見えます。しかし、私たちが「霊的な人たちに諸々の霊的な事柄[1]」を提示して、彼らをより神秘な理解の競争者と希求者にしても、馬鹿げたことではないでしょう。



[1] 1Co.2,13.

 

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