まことに次の話は私を驚かせます。しかも次のことは、語るのも恐ろしく戦慄を覚えます:すなわち、「神の僕であり友[1]」であるあの偉大なモーセ――神は「顔と顔を合わせて[2]」彼に語り、彼を通して数々の印と驚くべき諸々の力、過酷でもあり危険でもある諸々の事柄が、成し遂げられました――について、とても残酷で、とても危険な諸々の事柄が述べられています。いったい神は、何を彼に言ったのでしょうか。「そしてあなたは、あなたの民の許に埋葬されるだろう[3]。あなたの兄アロンがホル山の中で埋葬されたように[4]、あなたも」と言っています。そして、彼は、死の原因を説明するかのように、言っています:「ツィンの荒れ野の中であなた方は、私の言葉を踏み越えた――会衆が抵抗して、私を聖化しなかったがゆえに。あなた方は、彼らの前で、水の中で私を聖化しなかった[5]」と。ということは、モーセも、過失の内にあるのでしょうか。彼自身も、違反の犯罪に遭遇します。彼自身も、罪の下に置かれます。それで使徒は、自信を持って次のように言ったとを私は信じています:「死は、アダムからモーセに至るまで支配した[6]」と。実際それは、「モーセに至るまで」及び、彼自身も容赦しませんでした。それゆえ(使徒は)、次のように言ったというのが私の考えです:「罪が、この世の中に入った。そして罪を通して、死が(入った)。その罪の中ですべての人が罪を犯した[7]」、また、「神はすべての人を罪の下に閉じ込めた――(神が)すべての人を哀れむために[8]」と。しかし(私たちは)、私たちの主なるイエス・キリストに諸々の感謝(を献げましょう)。彼は、私たちをこの死の身体から解放してくださいました[9]」――「罪が豊かにあるところで、恵みが豊かに溢れるために[10]」と。実際モーセは、どのようにして人を諸々の罪から解放できたでしょうか――彼自身も、「あなた方は、ツィンの荒れ野の中で私の言葉を踏み越え、イスラエルの子らの前で水の中で私を聖化しなかった[11]」と言われているのに。それは、次のことがすべての人に明白になるためです:すなわち、ただひとり「罪を犯したことがなく、口の中に偽りの見出されなかった方[12]」だけが探し求められるべきであると。



[1] Cf.Jos.1,7 etc.

[2] Ex.33,11.

[3] Nb.27,13.

[4] Nb.33,34; Dt.32,50.

[5] Nb.27,14.

[6] Rm.5,14.

[7] Rm.5,12.

[8] Rm.11,32.

[9] Cf.Rm.7,24-25.

[10] Rm.5,20.

[11] Nb.27,14.

[12] 1P.2,22.

 

次へ