民数記第二十三講話

「私の諸々の献げ物は与えられた[1]」と書かれていることについて、そして、諸々の祝祭の多様性について。

 

 もしも諸々の生け贄の遵守と、イスラエル民の許に予型として与えられた律法上の諸々の定めが現在の時まで存続し得るとすれば、疑いもなくそれらは、私たちの主なるイエス・キリストの到来以来、異邦人たちを回心させてきた福音の信仰を排除したでしょう。たしかに、当時に遵守された諸々の事柄の中に、全幅の敬意に満ちた或る偉大な宗教がありました。それは、最初に見ただけでも、見る人を仰天させるものでした。実際、至聖所や聖所と呼ばれていた物を見、祭壇を眺め、さらに祭司たちが傍らに立って諸々の生け贄を成し遂げ、それらの事柄がことごとく行われていた順序の一切を凝視する人の誰が、この祭儀――ここにおいて、万物の造り主なる神が人類によって崇拝されるべきす――はこの上なく完全であると考えないでしょうか。



[1] Nb.28,2.