10 しかし、預言の言葉が教えているように、罪人たちの祭りの日々は「悲しみに変えられ、彼らの諸々の賛歌は嘆きに変えられます[1]」から、罪を犯し、罪の日を行う人は、祭日を行うことができないのは確実です[2]。したがってまたその人は、罪を犯す諸々の日の中で、絶えざる生け贄を神に捧げることができません。しかし、絶えず正義を遵守し、罪から自分自身を守る人は、(生け贄を)献げることができます。ところが、その人が(それを)中断して罪を犯す日において、彼が絶えざる生け贄を神に献げないのは確実です。

私は、使徒の諸々の言葉から理解できる或ることを言うのを恐れています。それは、私が或る人たちを悲しませているのではないかと思われないようにするためです[3]。実際、「義人の祈りが、焼香のように神のみ前に捧げられ、彼の諸々の手の高揚が晩の生け贄である」一方で、使徒が諸々の結婚の内にある人たちに「あなた方は、互いにだまし合わないようにしてください――あなた方がひと時、合意によって祈りに時間を空け、再び元に戻る場合を除いて」と言っているなら、結婚の諸々の必要事項に仕える人たちにとって、絶えざる生け贄が妨げられるのは確実です。それゆえ、絶えざる永続的な貞潔に献身した人にだけ、絶えざる生け贄を献げることが属していると、私には思われます。しかし、貞潔の諸々の生け贄を不断に屠ることがおそらくできない人たちには、他の諸々の祭日もあります。



[1] Am.8,10.

[2] 明らかに不自然な訳文であるが、訳者(朱門)は直訳している。

[3] オリゲネスは、結婚生活と絶えざる祈りの両立の難しさを述べようとしている(盗用厳禁)。

 

次へ