11 さて、絶えざる生け贄の祝祭の次に安息日の生け贄が、第二の祝祭として置かれています。そして、いかなる聖人も義人も、さらに安息日の祝祭をも行うべきです。ところで、安息日の祝祭は何でしょうか。それについて使徒は、「安息日の規定が、すなわち安息日の遵守が、神の民のために残されるでしょう[1]」と言っています。そこで私たちは、安息日のユダヤ的な諸々の遵守を後の残して、安息日のキリスト教的な遵守がどのようなものであるべきかを見てみましょう。安息日の日には、世のすべての活動の中の何一つとして行われてはいけません。ですから、もしもあなたが、世俗的なすべての仕事を止め、現世的なことを何も行わず、諸々の霊的な事柄に時間を空け、教会に集い、諸々の神的な朗読と諸々の解説に耳を貸し、天的な諸々もの事柄について考え、未来の希望について配慮し、来るべき裁きを眼前にもち、現前する諸々の可視的な事柄を顧みず、諸々の不可視的な未来の事柄を顧みるなら、それらが安息日のキリスト教的な遵守です。



[1] He.4,9.

 

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