15 第三の祝祭として新月祭という日が置かれています。その中では、諸々の生け贄も献げられます[1]。ところで新月は、新しい月と言われます。ですからその祝祭も、月が更新されるときにあります。しかしそれが新しいと言われるのは、それが太陽にもっとも近づき、それに密接に結び付いて、その輝きの下に隠れるときです。しかし、神的な律法が(月について)命令を出すことは、おそらく驚くべきこと、いやむしろ常軌を超えたのように見えるはずです。実際、新しい月の祝祭――すなわち、それが太陽に結び付き、それに密着するときの祝祭――を遵守することは、宗教にどのような利益をもたらすのでしょうか。それらのことが、もしも文字に従って考察されるなら、そえらは宗教的であるよりは、迷信的なものに見えるでしょう。しかし、使徒パウロは次のことを知っていました:それらのことについて律法は語られたのでなく、ユダヤ人たちによって遵守されているように見える祭儀を聖霊は定めたのでないことを。そしてそれ故に彼は、神の信仰を受け入れた人たちに向かって言いました:「ですから、食物や飲み物の中で、あるいは、新月祭や安息日などの祭日の面で、誰もあなた方を裁かないようにしてください。それらは、将来の諸々の事柄の影です[2]」と。ですから、私たちが上で諸々の力に応じて解説した安息日が[3]将来諸々の事柄の影であり、新月祭も「将来の諸々の事柄の影」であるなら、他の諸々の祝祭も同じように将来の諸々の事柄の影であることは確実です。



[1] Cf.Nb.28,11.

[2] Col.2,16-17.

[3] 「私たちが上で力を尽くして解説した・・・」というのが意訳。

 

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