16 しかし私たちは今、新月祭について見てみましょう。私たちは、月が更新され始め、太陽にもっとも近づき、深く結び付くとき、新月祭の祝祭が取り沙汰されると言いました。キリストは、「義の太陽[1]」です。もしもこれに月が、すなわち、彼の光に満たされた彼の教会が結び付き、それに深く密着し、使徒の言葉どおり「みずからを主に結び付ける者は、彼と一つの霊になる[2]」なら、そのとき教会は、新月祭の祝祭を行います。実際、教会は、「古い人間を捨て去り、神に従って創造された新しい(人間)を身に付けたとき」、新しくなります[3]。そして教会は、当然のごとく、新月祭の祝祭という更新の荘厳祭を行うでしょう。

そしてそれは、(月が)人間的な諸々の眼差しによって見られなくなり把握されなくなるときです。実際、魂は、みずからの全体を主に結び合わせ、彼の光の輝きの中に全面的に浸り込み、土的なことを何一つまったく考えず、現世的なものを何も求めず、人間たちを喜ばせることに熱中せず、みずからを全面的に知恵の光に、全面的に聖霊の熱に委ね、「精妙で霊的に[4]」なるなら、どのようにしてそれは、人間たちによって識別され、あるいは人間的な諸々の凝視によって把握され得るでしょうか。実に「動物的な人間は、霊的な(人間)を理解し識別することができません[5]」。それゆえ(魂は)、もっとも相応しく祭日を行うでしょう。そして、主によって更新された魂として、新月祭の生け贄を主のために屠るでしょう。



[1] Ml.3,20.

[2] Cf.1Co.6,17.

[3] Cf.Ep.4,22-24.

[4] Cf.Sg.7,22.

[5] Cf.1Co.2,14.

 

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