17 神の諸々の祝祭の中で第四の場所の中に、過越の荘厳祭が置かれています。その祝祭の中で、子羊が子羊が殺されます。しかしあなたは、真の子羊、「神の子羊、世の罪を取り除く子羊[1]」を見てください。そしてあなたは、「私たちの過越(の子羊)キリストは屠れられた[2]」と言ってください。ユダヤ人たちは肉的な理解によって子羊の諸々の肉を食べます。それに対して私たちは、神のみ言葉の肉を食べます。実際、彼ご自身が言っています:「あなた方は、もしも私の諸々の肉を食べなかったら、あなた方自身の中に命を持たないだろう[3]」と。

神のみ言葉の諸々の肉とは、私たちがいま語る次のことです。ただし私たちは、「病弱な人たちに諸々の野菜[4]」や「子どもたちに乳[5]」の食物を提示するかのようには語りません。すなわち、もしも私たちが諸々の完全な事柄を語るなら、もしも諸々の固い事柄を[6]、もしも諸々の強い事柄を語るなら、私たちは、あなた方に神のみ言葉の諸々の肉を食べるべきものとして給仕します。実際、神秘的な言葉が提示されるとき、三位の信仰に満ちた教義上の堅固な言葉が提示されるとき、「文字の覆いが取り去られて[7]」未来の代の霊的な律法の諸々の神秘が広げられるとき、魂の希望が諸々の土地から引き離され、諸々の天の中に投げ込まれ、「目が見たこともなく、耳が聞いたこともなく、人間の心の中に昇っても来なかった諸々の事柄[8]」の中に配置されるとき、それらすべてが、神のみ言葉の諸々の肉になります。完全な理解と浄められた心によってそれらを食べることのできる人は、真実に過越の祝祭の生け贄を屠り、神と彼のみ使いたちと共にその祭日を行います。



[1] Jn.1,29.

[2] 1Co.5,7.

[3] Jn.6,52.

[4] Cf.Rm.14,2.

[5] Cf.He.5,12.

[6] Cf.He.5,14.

[7] Cf.2Co.3,16.

[8] 1Co.2,9.

 

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