18 その(祝祭の)次に、いやむしろそれに連続させられたものとして、除酵祭の祝祭が続きます[1]。もしもあなたが、一切の「邪悪さのパン種」をあなたの魂から駆逐し、「誠実さと真の酵母」を守るなら、あなたは正当にその祝祭を祝うでしょう[2]。しかし、全能の神は、パン種のために人間たちに諸々の律法を定めていますが、魂がそのパン種を少しでも小麦粉とともに自分の家の中に散らばったまま持っていたのをたまたま目撃されたなら[3]、「魂は民から駆逐されねばならない[4]」と命じていると、考えられるべきではありません。また、神がそのパン種のゆえに甚だしく立腹したと言って、「ご自身がご自分の像と似姿に従って作った魂[5]」を、そのことのゆえに駆逐され滅ぼされるように命令するするほどの甚大な配慮が神的な威厳に存在したという理解は、神的な諸々の律法に相応しいことではないように私には見えます。むしろ、神を震撼させ、しかも正当に震撼させるものは、悪意の、怒りの、邪悪の霊によって魂が発酵し、諸々の破廉恥へと膨らむ場合です。

神は、それらのことが魂の中にあるのを望みません。そして、もしも私たちが、そのようなパン種を私たちの魂の家から捨て去らなかったなら、私たちは当然、駆逐されるでしょう。しかし、たとえ僅かであっても、あなたがあなた自身の内部に僅かな邪悪が発酵するのを目撃されたなら、あなたは軽視すべきではありません。なぜなら、「少しのパン種が塊全体を腐敗させる[6]」からです。したがってまた、僅かな罪についても、あなたは蔑ろにすべきではありません。なぜなら、一つの罪から他の罪も生まれるからです。実際、正義から正義が生まれ、貞潔から貞潔が生まれます――実際もしも誰かが、最初に少しだけ貞潔であることを始めたなら、その人は、貞潔のパン種を受け取って、日毎に貞潔になります――。それと同じように、一たび自分の内部に僅かでも邪悪のパン種を蓄えた人も、日毎にまさに自分自身によっていっそう悪く劣悪なものになります。そしてですから、もしもあなたが除酵祭の祝祭を神とともに行いたいと望むなら、あなたの内部に邪悪の僅かなパン種も居残ることを甘受すべきではありません[7]



[1] Cf.Nb.28,17.

[2] Cf.1Co.5,8.

[3] さすがに意訳した。直訳すると、「もしも魂が自分の家の中に散らされたこの小麦粉の或る少量を持っていたのを、小麦粉の中から何らかの偶然によって目撃されたなら」となる

[4] Cf.Nb.9,13.

[5] Cf.Gn.5,3.

[6] Cf.Co.5,6; Ga.5,9.

[7] Cf.1Co.5,8.

 

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