しかし(私たちは)、キリストの到来に諸々の感謝(を献げましょう)。彼は、私たちの諸々の魂をこの直観から引き離し、諸々の天的な事柄の考察と諸々の霊的な事柄の観想へと連れていってくださいました。そして彼は、諸々の地の中で偉大に見える諸々の事柄を破壊し、神の崇拝を諸々の可視的なものから諸々の不可視的なものへ、諸々の時間的なものから諸々の永遠的なものへ移してくださいました。しかし実のところ、主なるイエス・キリストは、それらの事柄を聞く諸々の耳と、それらの事柄を見る諸々の目を要求しています[1]。そこで私たち――モーセを通して与えられた律法を、今、諸々の手の中に持っており、それが「霊的な律法であること[2]」を示そうと欲している私たち――も、あなた方から諸々の耳と、諸々の目――あの破壊された諸々の事柄を見るのではなく、それらを、「キリストが神の右に座している」ところに探す諸々の目、「諸々の地の上に或る諸々の事柄でなく、上にある諸々の事柄を賞味する[3]」諸々の目――を求めます。

 さて、私たちによって言われるべき諸々の事柄のための序文としてしては、以上の諸々の事柄が前置きされたことで十分としましょう。



[1] Cf.Mt.13,13.16.

[2] Cf.Rm.7,14.

[3] Cf.Col.3,1-2.

 

次へ