22 さて私たちは、それによって神が人間の内に喜ぶところの神の最後の祭日が何であるかを見てみましょう。(聖文書は)それを「幕屋祭[1]」と言っています。ですから(神は)――あなたがこの世の中で諸々の幕屋の中に居住しているのを見たとき、あなたが、諸々の土地の上に密着し固定し露出した精神を持たず、地上的な諸々の事柄やを欲求する精神を持たず、「この(世の)生活の影[2]」を本来的で永続的な所有物と見なさず、過越の中に置かれていた、あなたが出立したあの楽園という真の祖国に急ぎ、「私は、私のすべての父祖たちと同じように、移住者でありよそ者です[3]」と言うのを見たとき――(神は)あなたの故に喜びます。実際、父祖たちも諸々の幕屋の中に居住していました。「アブラハムも諸々の諸々の小屋の中に」、すなわち、諸々の幕名の中に、「同じ約束の共同相続者としてのイサクとヤコブとともに生活しました[4]」。ですから、あなたが移住者であり、諸々の土地の中のよそ者であり、あなたの精神が諸々の地上的な事柄の数々の欲求の中に固定され根付かされておらず、むしろ、あなたが速やかに過ぎ越す覚悟ができていて、「乳と蜜の流れる土地[5]」に到達し、未来の諸々の事柄の遺産を受け取るまで「諸々の前の事柄に常にみずからを伸ばす[6]」覚悟できているとき、もしも神が――と、私は言いますが――それらの事柄の内に置かれたあなたを見るなら、神は、あなたの内に喜び、あなたの故に祭日を行うでしょう。



[1] Cf.eg.Lv.23,34:「仮庵祭」とも訳される。

[2] Cf.He.10,1.

[3] Ps.38,13.

[4] Cf.He.11,9.

[5] Ex.3,13.

[6] Ph.3,13.

 

次へ