23 それらの事柄は、現在の内にあります。しかし、未来の内で祭りの日々がどのように行われるかをあなたが考察したいなら、あなたの諸々の理解をできることなら地上から上げ、顔面にある諸々の事柄をしばらく忘れるべきです。他方あなたは、どのようにして「天と地が過ぎ越し、世界のこの一切のありようが過ぎ越す[1]」のか、また、どのようにして「新しい天と新しい地[2]」が基礎づけられるのかをあなた自身で描写してみるべきです。あなたは、あなたの諸々の視野からこの太陽の光を取り除くべきです。そして来るべきあの世界に、この太陽の七倍の(強い)光を与えるべきです。いやむしろ、()文書の権威に従って、主ご自身を光としてそれに与えるべきです[3](それに)付き添う栄光のみ使いたちを、あなたは描くべきです。諸々の力、諸々の権能、諸々の玉座、諸々の支配、そしてもっとも輝く天的な諸々の力の一切の名前――現在の代において名づけられる名前ばかりでなく、未来の代において名づけられる名前――を描くべきで。それらすべての間で、あなたは次のことを考察し、推測すべきです:すなわち、どのようにして主の祭りの日々が行われ得るか、そこではどのような祝祭があるか、どのような諸々の喜びがあるか、歓喜の大きさはどれほどかを。なぜなら、私たちが上で述べた霊的な諸々の祝祭については、たとえそれらが偉大で真実なものであっても、取り分けそれらが魂の中で霊的に行われる場合でも、部分的なもので、完全無欠のものではありません。実際、使徒が「私たちは部分的に知っており、部分的に預言する[4]」と言っていたように、私たちが部分的に祭日を行うのは必然なのです。



[1][1] 1Co.7,31.

[2] 2P.3,13.

[3] Cf,Jn.8,12.

[4] 1Co.13,9.

 

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