24 しかし、それらのことがその通りであることをあなたが知るために、私たちは、パウロ自身の言葉、すなわち彼が諸々の祭日と新月祭とについて言葉に戻りましょう。そしてあなたは、彼がどれほど注意深く次のように言ったかをご覧ください:「ですから、食べ物において、あるいは飲み物において、あるいは祭日の部分で、誰もあなた方を裁かないようにしなさい[1]」と彼は言っています。ここで彼がどのように言っているかにいっそう注意深く見てください:彼は、「祭日において」と言わずに、「祭日の部分において」と言っています。実際、この世の中に置かれている私たちは、祭日を部分的に行うのであって、完全無欠に行いません。なぜなら私たちはたとえ望まなくとも、肉の重荷によって掻き乱され、肉の諸々の情欲によって打ちのめされ、諸々の配慮と諸々の不安によって蝕まれているからです。実際、もっとも知恵のある方が言うとおり、「朽ちる身体は魂に重くのしかかり、多くのことを考える精神を圧迫します[2]」。ですから、この世の中において聖なる人たちは、部分的に祭日を行います。「なぜなら彼らは部分的に知っており、部分的に預言するからです。しかし、諸々の完全な事柄が来ると、部分的なものは破壊されるでしょう[3]」。すなわち、部分的な知識は、完全な知識に譲歩するように、部分的な祝祭は完全な祝祭に譲歩します。実際、この世界は完全なものを包含することができません。この世界では、私たちが申したように、身体の必要が、ある時は食物を、ある時は飲み物を、ある時は睡眠を求め、ある時には現在の生活の必要によって気遣いを引き起こすすべての事柄を求めています。それらすべての事柄が疑いもなく、神の祝祭の連続性を中断します。しかし、聖なる()の中で回復される者たちに関して述べられたことが到来したとき――もちろんこの私たちも、回復されるべき者たち、「飢えもせず、渇きもせず[4]」、眠りもせず、労苦することもなくなる者たち、み使いたちの生活が不眠であると言われているのと同じように[5]、不眠になる者たちの一員になるのに相応しくなるなら――、彼らがそのような秩序の内に回復されるに相応しくなるとき、真実で不滅の祝祭があるでしょう。その祝祭の頭であり主催者であり主は、私たちの救い主なるイエス・キリストご自身です。彼に「栄光と力が代々にありますように。アーメン[6]」。



[1] Ciol.2,16.

[2] Sg.9,15.

[3] 1Co.13,9-10.

[4] Cf.Ap.7,16.

[5] Cf.Si.16,27.

[6] 1P.4,11.

 

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