私が言いたいと望んでいることは、もしかすると驚くべきことかもしれません:私たちは、どうやら、祝祭と喜びの諸々の原因を神とみ使いたちに与えているようです。私たちは、諸々の土地の上を歩きながら、諸々の天の中に暮らしを持っている限りで[1]、諸々の地の中に置かれていながら、喜びと歓喜のきっかけを天に提供します。そしてそのことによって疑いもなく、私たちは、祭日を天的な諸々の力のために生みます。しかし、私たちの諸々の善き行いと諸々の徳の進歩とが、神とみ使いたちに喜びと祝祭的気分を生み出しているのと同じように、私たちの悪い暮らしは、諸々の土地に対してばかりでなく、天に対しても、諸々の嘆きと諸々の悲しみを引き起こしているのではないかと、私は案じています。そしておそらく、神ご自身に対しても、人間的な諸々の罪は悲しみを投げ込んでいるかもしれません。あるいは、次のように言う声は悲嘆する者の声ではないでしょうか:「私は、土地の上に人間を作ったことを後悔する[2]」と。そればかりか、福音書における主なる私たちの救い主の次の声もそうではないでしょうか。そこでは、こう言っています:「エルサレムよ、あなたは預言者たちを石打ちし、あなたに遣わされた者たちを殺したエルサレムよ、私は何度、あなたの子らを集めようと望んだことか――雌鳥がその雛たちを自分の諸々の翼の舌に集めるように[3]」と。そしてあなたは、古の人たちについてだけ、「彼らは預言者たちを石打ちにした」という言葉が言われていると考えないでください。私も、今日、預言者の諸々の言葉を聞かなければ、彼の諸々の忠告を蔑ろにすれば、私を預言者を石打ちし、私の中でという限りで殺します。すなわち、私は、彼を死んだ者として扱い、彼の諸々の言葉を聞きません。



[1] Cf.Ph.3,20.

[2] Gn.6,6.

[3] Mt.23,37.

 

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