しかし次の言葉も、人類を嘆く神の声です。それによって次のことが預言者を通して言われています:「私は悲しい。私は、収穫において藁を集める人のように、ブドウの収穫において諸々の房を集める人のようになった。なぜなら穂はなく、食べるべき初生りのためのブドウの実もないから。私の魂は悲しい。なぜなら、人間たちの中で矯正する敬虔な人はいなくなったから[1]」と。それらは、人類を嘆く神の諸々の声です。実際、彼ご自身が収穫物を集めるために来て、収穫のための藁を見出しました。そしてブドウの収穫物を集めるために来ましたが、ブドウの収穫のために見出したものは僅かなブドウの房、すなわち使徒たちだけでした。「もしも万軍の主が彼らを私たちのために種として残してくださらなかったら[2]、そして、もしも麦の粒が土地の中に落ちて非常に多くの実りを作らなかったら[3]、私たちはソドムのようになったでしょう。そして私たちは、ゴモラに似た者たちになったでしょう[4]」。

神のみ使いたちにとっても、私たちが上で申したとおり、「悔い改めを行う一人の罪人の上に、天の中で喜びが生じるでしょう[5]」。ところで、諸々の善い事柄のゆえに諸々の喜びが起こるなら、諸々の反対の事柄のゆえに嘆きが生じるのは確実です。したがって、もしもみ使いたちが、回心した人のゆえに喜ぶとすれば、必然的に彼らは、罪を犯す人のゆえに嘆くでしょう。



[1] Mi.7,1-2.

[2] Cf.Is.1,9.

[3] Cf.Jn.12,24.

[4] Cf.Is.1,9.

[5] Lc.15,7.

 

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