さて私たちは、諸々の祭りの諸々の律法を諸々の手の中に持っており、今の話題はそれらに関するものですから、私たちは、諸々の祝祭の命令がいかなるものであるかをより注意深く探求することにしましょう。そうすることによって私たちは、各人がどのようにして、各自の諸々の行為と聖なる諸々の暮らしから、神のために祝祭を準備することができるかを、諸々の命令それ自体と諸々の生け贄の祭式とから把握することができるでしょう。

では、神の第一の祝祭は、「絶えざるもの[1]」と呼ばれているものです。実際、絶えず、いかなる中断もまったくなしに、朝と晩の諸々の生け贄として差し出されるべき諸々のものに関して、命令が下されています[2]。ですから(主は)、諸々の祝祭の諸々の祭儀を命令するに当たって、真っ先に、過越の祝祭や種なしパンの祝祭や幕屋の祝祭やその他の定められた祝祭に進まず、生け贄が絶えず捧げられることを命令するこの祝祭を第一の祝祭として置きました。すなわち、完全で聖なるものになりたいと望む人はそれぞれ、それによって次のことを知ります:祝祭が神のためにいつか行われるべきでなく、真にいつか行われるべきでなく、義人は常に絶えず祭日を行わなければならないと。実際、このことは次のことを示しています:絶えず、諸々の朝の中と諸々の晩の中に献げられることが命じられている生け贄が、朝の時間を示す律法と諸々の預言の内に、そして晩(の時)を示す福音的な教えの内に、すなわち救い主の到来を示す世界の晩の内に、絶えざる意向によって存続すべきことを(示しています)。それらが、「そしてあなた方は、私の諸々の祭日を守りなさい」と、主が言っている諸々の祝祭です。ですから、もしも私たちが主に生け贄を絶えず献げるなら、もしも私たちが「絶えず祈り[3]」、こうして「私たちの祈りが朝に彼のみ前において焼香のように、私たちの諸々の手の高揚が彼にとって晩の生け贄になる[4]」なら、それが主の祭日です。したがってそれが、絶えざる生け贄の第一の祭典です。これは、私たちが上に提示した仕方で福音の崇拝者たちによって実行されねばなりません。



[1] Cf.Nb.28,6.

[2] 訳者(朱門)は直訳している。その文の意味は、各自で、了解せよ。

[3] Cf.Th.5,17.

[4] Ps.140,2.

 

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