民数記第二十四講話

個々の祝祭を通して献げるように命じられている諸々の生け贄について、そして神の対して誓われた諸々の誓いについて。

 

 傑出した諸々の学科に浸されねばならないすべての人たちは、彼らが手引きされるところの学科の目的と実りが何であるかに無知である限り、(諸学科の)諸々の初歩の労苦を厄介なものと見なします。しかし、彼らが整然と手引きされ、学科の完成が獲得されると、彼らは、諸々の初歩の諸々の厄介さを耐え抜いたことを喜ぶでしょう。神的で聖なる諸々の事柄の中にも、至福の完成をめざす人たちが手引きされるところの或る最初の諸々の初歩が存在します。神の僕はそのことを、脱出の賛歌の中で明瞭に示して言っています:「主よ、彼らを手引きして、あなたの嗣業の山の中に、あなたが準備したあなたの住居の中に彼らを入植させてください[1]」と。使徒パウロも、浸されるべき或る最初の諸々の端緒が存在していること、そしてその上で、(手引きを受けた人が)時間を追って完成に至ることを知っています。彼は、或る人たちに(手紙を)書いて次のように言っています:「実にあなた方は時間の故に既に教師たちでなければならないのに、再びあなた方は、神の諸々の言葉の始まりの諸々の初歩が何であるかを教えてもらう必要があります。そしてあなた方は、固い食べ物でなく乳を必要とする人たちになりました。実際、乳によって養われる人は皆、正義の言葉に参与していません。なぜなら彼らは、まだ幼子だからです。実際、固い食物は、完全な人たちのものです。彼は、摂取する可能性に応じて、善と悪の識別のために訓練された諸々の理解を持っています[2]」。そしてさらに彼は、他の諸々の箇所で、律法の文字と、その種の()文書の一切が(この)世界の諸々の初歩であると述べています[3]



[1] Ex.15,17.

[2] He.5,12-14.

[3] Cf.Ga.4,3.9; Co..2,8.20.