11 実際、もしも人が「内的な人間[1]」を耕さず、その(内的な人間の)世話を行わず、諸々の徳によって彼を訓育せず、諸々の良風によって飾らず、神的な諸々の教えによって訓練せず、神の知恵を探求せず、諸々の()文書の知識に努力を費やさないなら、その人は「人間・人間」とは言われ得ず、たんに人間そして「動物的人間」と言われるでしょう[2]。なぜなら内的な人間――人間という名前は、彼にとってより真実でありより高貴になります――は、肉的な諸々の悪徳によって鈍感にされ、この世の諸々の配慮と諸々の憂慮とによって翻弄されて、その名前で呼ばれることもできなくなっているからです。それゆえ私たちのひとり一人は、次のように行動すべきです:すなわち、もしも(私たちのひとり一人が)みずからの内で「内的な人間」が、諸々の罪の汚れと諸々の悪徳の諸々の棒とによって打ちひしがれて倒れているのを見るなら、その人はいっそう迅速に彼からすべての汚れを取り除くべきであり、いっそう迅速に彼を肉と血との一切の汚れをえぐり出すべきであり、いつの日にか悔悛へと方向転換すべきであり、神の記憶を自分自身の許に呼び戻すべきであり、救いの希望を呼び戻すべきです。実際それらの事柄は、外部のどこから探し求められるべきではありません。救いの時季は私たちの内部にあります――主が、「実に見よ、神の国はあなた方の内部にある[3]」と言っていたように。実に私たちの内部に、回心の能力があります。実際、「あなたが回心して呻いたなら、あなたは救われるでしょう[4]」。そして、そのときあなたは相応しく、「あなたの諸々の誓いをいと高き方に捧げる[5]」ことができ、「人間・人間」と言われることができるでしょう。



[1] Cf.2Co.4,16.

[2] Cf.1Co.15,46.

[3] Lc.17,21.

[4] Is.45,22.

[5] Cf.Ps.49.14.

 

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