13 しかし私としては、次のように言いたいです:もしも私たちが彼に私たちの正義を与えるなら、私たちは彼から神の正義を受け取るでしょう;もしも私たちが彼に、私たちの――すなわち身体の――純潔を捧げるなら、私たちは彼から純潔の霊を受け取るでしょう。そして、もしも私たちが彼に私たちの理解を捧げるなら、私たちは彼からご自身の理解を受け取るでしょう――使徒も、「しかし私たちはキリストの理解を持っています[1]」と言っていたように。他方、私たちが、私たちの内にある諸々のものを神に捧げ、神も彼の諸々のものを私たちの中に授けてくださったなら、そのときはもう私たちは、本当に、たんに「人間」と言われるだけでなく、「人間・人間[2]」と言われるでしょう。なぜなら(この後者の語)いずれの「人間」も、その呼称の完全によってみごとに飾られているからです。



[1] 1Co.2,16.

[2] Cf.Nb.30,3.

 

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