16 ですから、もしも「あなたが、あなたの十字架を持ち上げて、キリストに従う[1]」なら、もしもあなたが「もちろん私は生きていますが、(それは)もはや私ではありません。むしろキリストが私の中で生きています[2]」と言うなら、もしも私たちの魂が、使徒も言っていたように、「戻ってキリストとともにいる[3]」ことを「望み、渇望して[4]」、現在の代の諸々の誘惑に喜ばないなら、そして、ナジル人たちに関わる一切の律法を霊的に実行するなら、そのとき(私たちの魂は)、「自分自身を――すなわち自分の魂を――神に捧げた」ことになるでしょう[5]。貞潔の内に生きている人は、「しかし乙女は、どのようにして自分が身体と霊において聖なるものであるかを考える[6]」と言った人に従って、自分の身体を神に誓って捧げました。ところでその人が言った「聖なるもの」という言葉それ自体も、このことに関係しています。なぜなら、みずからを誓って神に捧げた人たちは、「聖なるもの」と言われるからです。それゆえ、たとえば雄羊も、もしも神に誓って捧げられるなら、聖なるものと呼ばれまて、一般的な利用のために散髪されることは許されません。そればかりか牡牛も、もしも神に誓って捧げられたなら、やはり聖なるものと呼ばれ、それが一般的な業のためにくびきに繋がれることは許されません。ですから、それらのことから私たちは、人間が自分自身を神に誓って捧げることが何であるかをかを推論することができます。もしもあなたがあなたを神に誓って捧げたなら、あなたは牡牛を――人間的な諸々の業に仕えることは許されず、人間たちと現在の生活とに関係することを行うことがまったく許されない牡牛を――模倣すべきです。魂と神的な祭儀の遵守とに関わるあらゆることを、あなたは行うべきであり、考えるべきです。



[1] Cf.Mt.10,38.

[2] Gal.2,20.

[3] Ph.1,23.

[4] Cf.Ps.41,3.

[5] Cf.Nb.6,1s.

[6] 1Co.7,34.

 

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