18 しかし、私たちは神に祈るべきです――神がご自分に相応しい理解をお与えくださり、それによって私たちがそれらの事柄を注目し、神に関する諸々の言葉に関して適切に理解できるように。神の律法の下に生き、彼の教会の中にいる私たちは皆、或る人たちは父たちの下に、或る人たちは夫たちの下に振る舞っています[1]。そして、もしも魂が子どもで、諸々の神的な教育における諸々の初歩を持っているなら、その魂は父の下に振る舞うと信じられねばなりません。しかし、魂がいっそう大人になって、それがいわば夫としての神の言葉の種を宿し、霊的な教えの諸々の秘密を捉えることができるようになるなら、その魂は夫の元に置かれていると言われます。実際パウロも、そのような意味でコリントの人たちに言っています:「しかし私は、あなた方は皆を貞潔な乙女として、一人の夫たるキリストに提示したいと願っています[2]」と。しかし、彼らの中でより完全でより卓越した人たちに関しては、彼らは夫の下にあるとは言われません。あなたは、パウロがどのような意味で自分自身と、自分と似た人たちとについて表明しているからお聞きください:「私たちが皆、完全な人へと、キリストの充満の年齢の背丈へと馳せ参じるまで[3]」と、彼は言っています。ですから、「完全な人に馳せ参じた」魂に対しては、誰も諸々の誓いにおいて君臨しません。むしろ(その魂が)、自分の諸々の(持ち)ものの権能と諸々の誓いの自由を持っています。



[1] 「・・・皆、それぞれ各自の父の下に、あるいは夫もとに暮らしています」というのが意訳。

[2] 2Co.11,2.

[3] Ep.4,13.

 

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