ですから、諸々の最初の諸々の要素に浸されるべき人たちに関係した諸々の事柄が、最初の聴聞では私たちにとっては今のところ厄介なものに見えます。実際、聴講者たちの中で、救いに関係する諸々の事柄を学びたいと望んでいる人たちのひとり一人に、雄羊たちと牡山羊たちと仔牛たちの諸々の生け贄に関して朗読されるとき、彼らは、聴聞に関する限りでは、その種の諸々の文字が自分たちに何の利益ももたらさないと判断するに違いありません。しかし、「古い契約の朗読の中に置かれている覆い」を取り除いて、そこから、諸々の祭日の中で民を浄める諸々の真の生け贄が何であるかを探求することができる人が見出されるなら[1]、そのときその人は、それら(の生け贄)を通して示されている諸々の事柄――無知な人たちには余計で迷信的であると見なされる諸々の事柄――がどれほど壮麗で驚くべきことかを見るでしょう。

 しかしそれらの事柄を、パウロと、彼に似た人たちがいるならその人が、神のみ言葉と知恵そのものからより十全かつより完全に認識しているでしょう。ところが私たちは、それらの事柄の諸々の文字から集めることができる限りで――それらの事柄は、それらの文字の中で私たちのために、いわば「影と像」を通して或る諸々の指標を与えました――、一般的な建徳のために、諸々の生け贄の祭儀に関して若干の事柄を概略的に検討することにしましょう。



[1] cf.2Co.3,14-16.

 

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