そこであなたは、次のことを見てください:主なる私たちの好く主が「子羊のように屠り場に連れていかれ[1]」、生け贄として献げられ、諸々の罪の赦しを全世界に提供したように、おそらく、「義人アベルの血から、聖所と祭壇の間で殺された預言者ゼカルヤの血に至るまで[2]」注がれた他の聖なる義人たちの血も――ある人の血は牡牛の血のように、ある人の血は牡山羊や雌山羊やそれらのいずれかの血のように――民を部分的に贖うために流されたのではないでしょうか。ですから、それらのことは、この世の中で殺害された義人たちと預言者たちとの諸々の位格や、「私たちはあなたのために、一日中、死によって苦しめられ、屠り場の羊たちにように見なされました[3]」という人たちの位格に関係づけられるべきであるように見えます。あるいは更に、人類の管理をもたらすより優れた力たちに(関係づけられるべきであるように見えます)が、いったい誰が、それを敢えて易々と断言するでしょうか。実際、それらの生き物たちは外見によってではなく、象徴によって、あれこれの位格に関係づけて考えられるべきです。



[1] Ac.8,32.

[2] Mt.23,35.

[3] Ps.43,23.

 

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