実際、主なるイエス・キリストご自身も、まるで子羊の外見に変化して変容したかのように、子羊と言われているのではありません。しかし彼が子羊と言われるのは、彼の意志と善性――それによって彼が、人間たちのために神を宥め、諸々の罪の赦しをお与えになったところの善性――が、人類にとって、あたかも子羊の汚れなき無垢の犠牲――それによって諸々の神的なものが人間たちのために宥められると信じられている犠牲――のようになったからです。

ですからおそらく、もしもみ使いたちと諸々の天的な力の中に、あるいは正しい人たちや聖なる預言者たちと使徒たちの中に、人間たちの諸々の罪のためにより熱心に取りなす人が誰かいれば、その人は、神的な宥めのために献げられた雄羊や牡牛や牡山羊のように[1]、民のために成し遂げられるべき清めのための生け贄として理解され得るでしょう。あるいはパウロは次のに言ったとき、雄羊や牡山羊として、みずからをイスラエルの民のために全燔祭として献げたように見えないでしょうか:すなわち、「しかし私自身は、肉によれば私の親族である私の兄弟たちのために、キリストから離れた呪われ者になりたいと願っている[2]」とあります。あなたは、パウロが屠殺される犠牲としてみずからを献げていることを知りたいですか。あなたは彼が、別の諸々の場所でも、次のように言っているのをお聞きください:「実際すでに私は、生け贄として献げられています。そして私の解放の時――あるいは、私たちがギリシア語の諸々の写本の中に読むように、(私の)帰還の時[3]――が迫っています[4]」と。



[1] Cf.Nb.28,19.

[2] Rm.9,3.

[3] 省略

[4] 2Tm.4,6.

 

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