しかし、もしも人間たちが諸々の罪から浄められ、いっそう浄くなることができるなら、諸々の犠牲も少なくされます。実際、諸々の罪のために諸々の犠牲が存在するなら、疑いもなくそれらは、諸々の罪の多さに応じて増やされ、少なさに応じて少なくされます。この事柄の諸々の指標を、私たちは()文書の目下の諸々の箇所の中に、すなわち、「幕屋祭[1]」という最後の祝祭の中に持っています――その祝祭のとき、八日間にわたって諸々の犠牲が献げられることが命じられています[2]。実際、第一日目には、そのときまで諸々の罪の横溢の内にあったかのように、十四頭の牡牛が献げられるように命じられています。しかし第二日目には、ともかく諸々の罪が少なくなり、諸々の犠牲も少なくされ、十三頭の牡牛が献げられます。第三日目には十二頭、そしてその次は十一頭(の牡牛)などと、諸々の清めによって諸々の罪の多さが日毎に欠けていくかのように諸々の犠牲の数も必然的に少なくされます。



[1] Cf.eg.Lv.23,34:「仮庵祭」とも訳される。

[2] Cf.Lv.23,36.

 

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