実際、他の諸々の犠牲は諸々の祈りによって諸々の罪を退去させましたが、この子羊だけは、権能によって退去させました。実際、彼は、「子どもよ、あなたの諸々の罪は、あなたのために退去させられた[1]」と言っています。ですからそのように世界は、完全な犠牲の許に、最高の犠牲の許に、すなわち「世界全体の罪を取り除く[2]」完全な「一切の子羊[3]」の許に行き着くまで、先ず多様な犠牲を通して諸々の罪の退去を求めることが教えられます。実に世界は、その子羊を通して、諸々の霊的な祝祭を行います――肉の満足のためでなく、霊の進歩のために、霊的な諸々の生け贄を精神の浄化によって献げることによって。実際、神のために心の生け贄と「打ち砕かれた霊の生け贄[4]」が屠られるのは相応しいことであって、肉と血の生け贄が屠殺されるのは相応しくありません。なぜなら、「たとえ私たちはかつて肉に従ってキリストを認識したとしても、今はもう (そのように)知っていない」からです。ですから私たちは、霊の内に祭日を行いましょう。そして霊的な諸々の生け贄を屠殺しましょう。それらの事柄が、私たちによって諸々の力に応じて、諸々の生け贄の多様性に関して検討されました。それらの事柄の透き通った理解は、「その方にとっては、すべてのものが裸で露わにされていて、いかなる被造物もその方のみ前では不可視的ではない[5]」ところの方が知っています。



[1] Mt.9,2.

[2] Cf.Jn.1,29.

[3] Cf.Ex.12,5; Nb.29,13.

[4] Ps.50,19.

[5] He.4,13.

 

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