14 しかし私たちは、それらの事柄の中で霊的な意味が何を示しているかを見ることにしましょう。神の民の中には、使徒が言うように、神のために軍務につく或る人たちがいます。彼らは疑いもなく、世俗の諸々の業務に拘束されません[1]。そして彼らは、戦闘に進み出て[2]、敵対的な異邦人たちに対して、そして霊的な諸々の邪悪に対して戦う人たちです[3]――他の民のために、そして、年齢や性や意図によっていっそう弱い弱い人たちのために。しかし彼らは、諸々の祈りと諸々の断食、正義と敬神、柔和と貞潔、そして節制のあらゆ徳という戦いのための諸々の武器によって強められて戦います。そして彼らが、勝利者たちとして諸々の宿営に戻ってきたとき、出陣しなかった人たちでさえ、そして戦いに招集されなかった人たちや出陣することのできなかった人たちも、彼あの諸々の労苦を享受します。しかし、それらの異邦人たちから取られるすべての物は、汚れた物であることが知られねばなりません。そしておそらく、この代で採用されたり、戦闘によって奪取られる物はすべて汚れたものであり、清めを必要としています。そしてそれらの物の中のある物は、火を通過しなければなりませんが、他の物には、水の清めで十分でしょう[4]



[1] Cf.2Tm.2,4.

[2] Cf.Nb.31,1s.

[3] cf.Ep.6,12.

[4] Cf.Nb.31,23.