17 しかし、(民の)両方の部分は[1]、神に(供物を)捧げるように命令されています。実際、打ち負かした人たちは「五百の中から一[2](を捧げ)、家に留まった人たちは「五十の中から一[3](を捧げるように命令されています)。ところで、「五百」と「五十」の数は聖なるものであることを、(聖なる)文書は証しています[4]。それゆえ救い主も、諸々の福音の中で次のように言っていました:「ある金貸しの人間に二人の負債者がいた。彼らの中の一人は五百デナリを負い、他の一人は五十(デナリ)を負っていまた。彼らは(負債を)返済する資財を持っていなかったので、(金貸しは)二人を赦した[5]」と。さらに七つの週は、(それらに)一単位すなわち一日が加えられると、五十番目の日を作ります。それは、五旬節の祝日と呼ばれます。同じように、七十の週は、(それらに)十という仕上げが加えられると、五百の数をもたらします。しかし、七十の週が七つの週よりも数が多いのと同じように、五百の数は五十の数よりも傑出しており、いっそう完全です。結局そのようなわけで、上に私たちが披露した福音のたとえ話の中でも、私たちの救い主は、「借りていた五百デナリを赦された人の方が、五十(デナリ)を赦された人よりも、(その金貸しを)愛する」と宣言しているのです[6]



[1] 戦いに出た人たちと、宿営に留まった人たちを指す。

[2] Cf.Nb.31,28.

[3] Cf.Nb.31,30.

[4] Cf.Hom.Nb.V,2.

[5] Lc.7,41-42.

[6] Cf.Lc.7,41-42.