18 つぎに目下の朗読の中で、祭司エルアザルは一切の民に語ったと書かれておらず、「戦闘から戻ってきた者たちに」だけ語ったと書かれています。実際、(聖文書は)言っています:「そして、祭司エルアザルは、戦闘から戻ってきた力の男たちに言った[1]」と。ですから、あなたはどのようにして神の言葉が「力の男たち」に語るのかを見ます。すなわち、「力の男たち」は、「戦いに進み出る」人たちです。しかし、もしも人が戦うことや軍務につくことを望まないなら、もしも人が神的な諸研究と節制との競争を持つことを望まないなら、その人は、使徒が次のように言ったことを履行することを望みません:すなわち、「しかし戦いの中で努力する人は、すべてのものを慎みま[2]す」とあります。ですから、戦いの中で努力せず、すべてのものを慎まず、神の言葉の内に訓練されることや、「神の律法の中で日夜、省察する[3]」ことを望まない人は、たとえ男と言われても、「力の男」とは呼ばれることはできません。しかしながら、今、神的な文書の言葉が話題にしている人――敵たちから諸々の剥奪品を持ち帰る人――は、「力の男」と呼ばれています。実際、「祭司エルアザルは、戦闘から戻ってきた力の男たちに語った[4]」と、()文書が言っていることこそ、その人の賞賛の勲章です。

私たちの内の誰がこのように、自「戦いに進み出て」、敵たちに対して戦い、分も「力の男」と呼ばれ得るように用意しているでしょうか。しかし、節度のある生活と節制の労苦と諸々の戦いの諸々の交戦とが、それぞれの人を「力の男」にするのと同じように、弛んで怠慢で脱力した生活は、逆に、(各人を)脱力の男と呼ばしめます。ですから、もしもあなたが、「力の男」と呼ばれることを望むなら、あなたは「神の力と神の知恵[5]」である「主なるキリストを身に着けてください[6]」。そして、あらゆる事柄において、あなた自身を主に結び付けて、彼とともに「一つの霊になる[7]」ようにしてください。そうすれば、そのときあなたは「力の男」になるでしょう。



[1] Nb.31,21.「力」は、倫理的な「力」すなわち「徳」も意味する。

[2] 1Co.9,25.

[3] Ps.1,2.

[4] Nb.31,21.

[5] 1Co.1,24.

[6] Rm.13,14.

[7] Cf.Ep.4,4.