それゆえ私たちは、次のことを教えられます:すなわち、他の人たちに罪の原因を提供することの方が、各人が罪を犯すことよりもはるかに重大だということです。それは、救い主も次のように言うとき、明示しているとおりです:「人間にとって生まれないこと、あるいは、挽き臼がその人の首の周りに結び付けられて海の深みに突き落とされることの方が、それらの小さき者たちの一人を躓かせることよりも善いことだ[1]」と。同時に次のことが注意されねばなりません:すなわち、少なからざる人たちは躓きという名称を不適切に想定し、正しい道を歩んでいる人に罪への何らかの欺きが仕掛けられ、その人が罪を犯すことの原因に服従させられるときに、その躓き(という名称)が言われるとしました――たとえばミディアン人たちが、「主の律法の中に歩み[2]」、貞潔を守っているイスラエル人たちに、彼らを犯罪へと欺く女たちを差し向けました。ですから、罪を犯すことの原因を提供すること、これが躓かせることです。ともかく、罪を犯した人たちに対してよりも、躓きを与えた人たち、罪の原因を提供した人たちに対しての方がはるかに大きな仕返しが与えられます。



[1] Cf.Mt.26,24; Mc.14,21.

[2] Ps.118,1.