20 ですから(聖文書は)、言っています:「主がモーセに定めた律法ので義とされることは次のことである:金と銀と青銅と鉄鉛と錫の他に、火を過ぎ越す一切の物を、あなた方は火に通しなさい。そうすればそれ()は、浄められるだろう。そればかりか浄化の水の中でも、それらは浄化されるだろう。火を過ぎ越さない物はどれも、水を過ぎ越さねばならない。そしてあなた方は、七日目にあなた方の諸々の衣服を洗わねばならない。そうすれば、あなた方は清くなるだろう。そしてそれらの後で、あなた方は諸々の宿営に入りなさい[1]」。あなたはどのような意味で、この生活の戦闘から脱出する一切の人が浄化を必要としているかを見るでしょう。そしてもしも(事柄が)その通りであれば――私が()文書の権威に従って何かを敢えて言うなら――この生活から脱出する一切の人は、(そのままでは)清いものではあり得ません。

実際、歴史の本文が何を指し示しているか、あなたは注意深く考察してください。かの人たちはイスラエルの子らのために戦いに出て行き、ミディアン人たちを殺害しました。歴史の秩序と律法の文字に関する限り、彼らは、彼らを殺害することによって神を喜ばせました――すなわち彼らは、神の意思を全うしました――。しかしながら、彼らは敵たちを殺害したということそれ自体によって汚れたものになったと言われ、それゆえ彼らに次のことが言われます:「あなた方は、あなた方の諸々の衣服を七日目に洗いなさい。そうすればあなた方は、清くなるだろう。そしてそれらの後で、あなた方は諸々の宿営の中に入りなさい[2]」。ですから、戦う人たちは、彼らが汚れた敵たちに遭遇し、彼らに対して前進し、彼らと戦いを持つことそれ自体によって、汚れました。



[1] Nb.31,21-24.

[2] Nb.31,24.