21 私にしても、たとえ私が悪魔を打ち負かすことができたとしても、たとえ私が、(悪魔が)私の心に教唆する諸々の汚れた悪しき諸々の考えが襲ってくるのを撃退したり、私の中に入ってきたのを殺したりして、それらの考えが目的に達しないようにすることができたとしても、また私が龍の頭を踏みつけることができ、また(実際そうすることが)できたとしても[1]、そのことそれ自体によって私が必然的に汚れ、汚染されるのは必然です。もちろん私は、彼を凌駕することができた点で幸いでしょう。しかし、(彼に)遭遇した私は不浄であり、汚れています。そしてそのことのゆえに、私は浄化を必要としています。ですから、もちろん()文書も、「汚れから来よい人は誰も出ない[2]」と言っています。ですから私たちは皆、浄化を必要としています。いやむしろ数々の浄化を必要としています。実際、多くの多様な浄化が私たちを待っています。しかし、それらの事柄は、言語を絶した神秘です。



[1] Cf.Gn.3,15.

[2] Jb.14,4.