しかしあなたは、聖なる人たちの許においてばかりでなく、異邦人たちや野蛮人たちの許においても、諸々の名前が諸々の事柄のために案配されていることをご覧になりたいですか。実際、聖なる人たちについて、なぜアブラムがアブラハムと呼ばれ[1]、そしてサライがサラ[2]、そしてヤコブがイスラエルと呼ばれたのかが知られています[3]。しかし私たちは、その習慣が野蛮人たちの許でも持たれていることを教えるべきです。イスラエルの子たちの一人は、その親たちからヨセフという名前を受け取らなかったのですか[4]。しかし、彼がエジプトの中に移行し、ファラオの前に立ったとき、彼は彼の名前を変え、彼をヨセフに代えてツァフェナト・パネアと名づけました[5]。ファラオは、それを自分の言葉で、諸々の秘密や諸々の夢の啓示から作成しました。そして、このヨセフにだけ、ファラオの許で、(その)事柄から名前が案配されたのではありません。ダニエルも、バビロンの中でベルテシャツァルと名づけられ、アナニアとアザルヤとミシャエルは、(それぞれ)シャドラク、アベド・ネゴ、ミシャエル、メシャクと呼ばれています[6]。ですからあなたは、イスラエル人たちの諸々の名前も、野蛮な人間たちの諸々の名前も、偶然によってでなく、諸々の事柄と諸々の原因のために律法の中で案配されていることを見るでしょう[7]。したがって、ミディアン人たちの王を、モーセは、彼自身が呼ばれるべきだと判断するままに呼びました。(聖文書は)言っています:ミディアン人たちの中に君臨していたのは、野獣的な野蛮さです。そして、それだけではありません。彼らの許には「レケム[8]」という名前の別の王がいます。その名前は、私たちの言葉の中で虚しさです。ですから,ミディアン人たちの国民の中には虚しさも君臨しています。



[1] Cf.Gn.17,5.

[2] Cf.Gn.17,15.

[3] Cf.Gn.35,10.

[4] Cf.Gn.30,24.

[5] Cf.Gn.41,45.

[6] Cf.Dn.1,7.

[7] 省略

[8] Nb.31,8.