10 しかし、私たちは、「ルベンとガドとマナセの半部族[1]」の嗣業地の歴史を解明することを望んでいるのに、それらの事柄を前置きしたのはなぜなのかを、あなたはお聞きください。私たちが読んだそれらの行いを物語る人は、私たちが上に叙述したような少年でもなければ、上述の何らかの男でも年長者でもなく、そもそも人間ではまったくありません。そして、更にもっと何か私が言うとすれば、み使いたちや天的な諸々の力の誰かでもありません。むしろ、偉大な人たちの伝承が保持しているように、聖霊がそれらの事柄を物語ります[2]。それゆえ、神の霊の鼓吹によらなければ、モーセはどのようにして、世界の始めから行われた諸々の事柄であれ、その終わりにおいて行われるはずの諸々の事柄であれ、それらを物語ることができたでしょうか。聖霊が語らなければ、どのようにして彼は、キリストについて預言できたでしょうか。実にそのような意味で、キリストご自身も彼に証をして、言っています:「もしもあなた方がモーセを信じたなら、あなた方は、言うまでもなく私をも信じただろう。実際、彼は私について書いたのである。しかし、もしもあなた方が彼の諸々の文字を信じなければ、あなた方はどのようにして私の諸々の言葉を信じるだろうか[3]」と。ですから、それらの事柄が聖霊を通して言われたことは確実です。そしてしたがって、それらの事柄は、(それらの事柄を)語る方の品位に則して、いやむしろ威厳に則して見られるのが適切です。

そればかりか、この箇所で、更に次のことを思い起こすのも極めて適切であると、私は考えます:すなわちアブラハムは、諸々の責め苦の中に置かれた金持ちが、「行って、彼の兄弟たちに敬虔に生きて、彼らも、この諸々の責め苦の場所の中に降りてこないように忠告するために解放してくれ」と自分に懇願するのを聞きました。そして彼は、「彼らはモーセと預言者たちを持っている。彼らは彼らに聞くべきである」と、彼に答えました[4]。とにかく彼は、「モーセと預言者たち」を身体の中に置かれた或る人間たちをとして語っていませんでした。むしろ彼は、神の霊がモーセを通して語ることによって作成された諸々の事柄を、「モーセ」と名づけました。



[1] Nb.32,33.

[2] 聖文書は、人間の手を借りて聖霊の息吹によって書かれたものというのが、オリゲネスの一貫する考えである。Cf.eg.De Princ.IV,2,2,

[3] Jn.5,46-47.

[4] Cf.Lc.16,23-31.