13 もちろん、それらの事柄が神秘的なものであり、何らかの神的な意味を含んでいることを、上に述べられた諸々の事柄から誰も疑問視できないと、私は思います――たとえその人が、「諸々のユダヤ的な作り話」に飽くことなく耽っているとしても。しかし、そのことを否定する人は誰もいないと私は思いますが、それと同じように、それらの物語から示される諸々の事柄が何であるか、そして、諸々の事柄のどのような顔がその覆いの下に隠されているかを明澄に知ることは、それらの事柄が書かれるように鼓吹した聖霊と自身と、私たちの主イエス・キリスト――彼についてモーセは、「実に彼は私について書いた[1]」と言っていました――と全能の神に属していると私は思います。そして、全能の神の昔の意志は人類に剥き出しのままでなく、諸々の文字に覆われたものとして示されています。

しかし私たちは、「神の独り子[2]」であり、「ご自分の望む人たちに父を啓示してくださる[3]」神のみ言葉に心から祈りましょう――彼が私たちにもそれらの事柄を啓示してくださいますようにと。なぜなら、それらの事柄の中に諸々の約束の神秘があるからです。「(神は)それらの神秘をご自分を愛する人たちに約束しました――それは、神によって私たちに授けられた諸々の事柄を、私たちも知るようになるためです[4]」。しかし、あなた方も、諸々の祈りの中で私たちを助けてください。そして、話しをする私たちによりは、むしろ、ご自分の証明に相応しいと見出した人々を証明してくださる神に熱心に集中してください。それらの事柄の観想によって私たちにも、「私たちの口の開口の中で[5]」言葉を与えてくださるように。そもあれ、さあ今やあなた方は、もしも心を主の方へと高めたなら、そして、彼の聖なるみ言葉の証明を願ったのなら、隠れているように見える諸々の事柄の意味の探求に向かいましょう。



[1] Jn.5,46.

[2] Cf.Jn.1,18.

[3] Cf.Mt.11,27.

[4] Cf.1Co.2,9,12.

[5] Cf.Ep.6,19;直訳している。