14 エジプトからの脱出の形象は二つの仕方で受け取られること、私たちの先人たちによっても[1]、また既にしばしば私たちによっても言われました。実際、人が諸々の誤謬の諸々の暗闇から覚知の光へと導かれとき、地上的な暮らしから霊的な諸々の教導に回心するとき、その人はエジプトから脱出して、荒れ野に、すなわち、次のような生活の状態に至ります――すなわち人はその中で、沈黙と静寂を通して諸々の神的な律法によって鍛えられ、天的な諸々の教話に浸されます。それらによって教えられ指導された人は、ヨルダン川を渡ると、約束の地に向かって急ぎます。すなわち彼は、洗礼の恵みを通して福音的な諸々の教導へと至ります。

しかし、次のこともエジプトからの脱出の形象であると、私たちは言いました:すなわち、魂がこの世の諸々の暗闇と身体的な本性の盲目を後に残して、別の代に移されるときです。その別の代は、ラザロ(のたとえ話)の中にあるように「アブラハムの懐[2]」として、あるいは、十字架から(イエスを)信じた泥棒(の話し)のなかにあるように「楽園[3]」として示されています。あるいはさらに、神が何であるかを知っている他の諸々の場所や他の諸々の逗留地として示されています――神を信じる魂は、それらを過ぎ越して、「神の都を喜ばすあの川[4]」に到達します。そして魂は、その川の内側で、父祖たちに約束された嗣業地の分け前を受け取ります[5]



[1] オリゲネスの先人たちの一人に、彼の聖書解釈に多大な影響を与えたフィロンを挙げることができる。

[2] Cf.Lc.16,22.

[3] Cf.Lc.23,40-43.

[4] Cf.Ps.45,5.

[5] 「ヨルダン川の横断」は、二重に解釈されている。後半には、『原理論』に述べられた仮説としてのオリゲネスの世界観(宇宙観)が垣間見られる。