20 しかし、()文書の多くの箇所の中で、私たちは、「地」が賞賛的に命名されているのを見出しますが、「乾いた所」が賞賛的なものとしておかれていないのを私たちは容易に読みます。実際、アダムも罪の後で咎められ、「乾いた所」と名づけられる場所の中へと追いやれました。彼はその前は「乾いた所」の中にはおらず、「地」の中にいました。すなわち楽園は、「乾いた所」の中になく、「地」の中にあります。そればかりか、主が福音の中で「柔和な人たち」にものは、「乾いた所」ではなく、「地」です。実際、(彼は)言っています:「柔和な人たちは幸い。なぜなら彼らは、地を受け継ぐだろう[1]」と。更に福音の中で、「百倍の、六十倍の、そして、三十倍の実のりを与える」種は、「地」であって、「乾いた所」でないと言われています[2]。そして私は、或る進歩が「乾いた所」から「地」に進むことに属していると思います――この「乾いた所」が「地」と呼ばれるという或る進歩が存在したように。実際、私たちは皆、不毛で、いかなる正義の実りも、純潔のいかなる実りも、敬神のいかなる実りももたらさない限り、「乾いた所」です。しかし、もしも私たちが、私たち自身を耕し始め、怠惰な諸々の魂を諸々の徳の結実へと駆り立て始めるなら、私たちは、「乾いた所」から「地」――神のみ言葉から受け取った諸々の種を、豊穣な結実によって増やす「地」――になります[3]



[1] Mt.5,5.

[2] Cf.Mt.13,8.

[3] Cf.Mt.13,8.