24 さらに、説明の第三の仕方も考えられます:すなわち、イスラエルの子らの中で、すなわち、教会の民の中で、或る人たちは霊的な人たちで、彼らは「ヨルダン川のこちら側[1]」で、「乳と蜜の流れる地[2]」の嗣業地を手に入れる、すなわち、知恵と知識の甘みを獲得すると理解されます。なぜなら彼らの土地は、神的な理解という諸々の水に満ちた神の川に囲まれ、潤されているからです。しかし、他の人たちは肉的な人たちで、当然のことながら「諸々の家畜と諸々の羊[3]」を、すなわち、鈍重で浅はかな諸々の理解に溢れています。彼らはあたかも、使徒が次のように言っていた人たちでした:「あなた方は、霊によって始めたのに、今や肉によって完成されようとするほど愚かになったのですか[4]」、そして、「おお、愚かなガラテヤ人たちよ。誰があなた方を、真理に従わないように惑わすのですか[5]」と。そればかりか、私たちのひとり一人も、みずから武装して、鈍感で野獣的な諸々の理解を捨て去り、霊的な理解へと急行しなかったなら、「ヨルダン川の外側[6]」に留まるでしょう。彼らは、「神の都を喜ばす」知恵の「川[7]」を通して、すなわち、神を許容できる魂を通して中へ進むことができないでしょう。彼は、主の諸々の発言のいっそう内的な諸々の事柄――すなわち、「蜜と蜜房に優っていっそう甘い[8]」諸々の内的な事柄――を獲得しないでしょう。むしろ彼は、二人の王が殺害されたあの土地を獲得するだけでしょう。そこでは、その人に次の言葉が言われるはずです:「私は、あなた方の間では、キリスト・イエス、しかもこの十字架につけられたキリスト・イエス以外のことを何も知るべきでないと判断しました[9]」と。



[1] Nb.32,19.

[2] Cf.Ex.33,3.

[3] Nb.32,1.

[4] Ga.3,3.

[5] Cf.Ga.3,1.

[6] Cf.Nb.32,5,9.

[7] Ps.45,5.

[8] Ps.18,11.

[9] 1Co.2,2.