しかし、あなたは次のことをお考えください。すなわち、戦士たち自身の間では、少なくとも神のために軍務に就く人たちの間では、「自分たちを招集した方を喜ばすことができるよう[1]」になるばかりでなく、「神の律法の中で昼も夜も省察することがきるように[2]」、「世俗的な諸々の生業にまったく関わらない[3]」ほどの準備と覚悟ができている人たちがいると。ですから、そのような人たちが、「戦士たちの合計[4]」と呼ばれます。

さらに、「彼らの中では誰も違うことを考えない[5]」という言葉は、戦士たちの一般的な数について言われたものでありません。「戦士たちの合計」と名づけられた人たちについて言われています。実際、そのような人たちの中には、いかなる見解の相違、いかなる不和もありません。実に彼らこそ、次のように言われている人たちです:「しかし信者たちには(一つの)の心と一つの魂があり、彼らの内の誰も、何かを自分のものだと言わず、すべての物が彼らにとって共通のものだった[6]」と。ですから彼らは、見解の相違のまったくない「戦士たちの合計」です。彼らは、戦闘によってもっとも多くの金を受け取り、一切の飾り――頭のであれ、諸々の腕のであれ、諸々の指のであれ――すなわち、諸々の知性の中に彼らが持っているもの、諸々の業の中に彼らが持っているものならどんなものでも、神に捧げます。なぜなら彼らは、「彼の諸々の賜物が彼への諸々の供物[7]」であることを知っているからです。したがって彼らの中には、意見を異にする者は一人たりともいません。なぜなら、見解の相違の内に置かれた人たちは、神に諸々の供物を献げることはできないからです。

彼らは福音によれば、主なる救い主が命じた掟を注意深く守る人たちであると、私は思います:すなわち、「しかし、もしもあなたが、あなたの供物を祭壇に供えようとして、あなたの兄弟があなたに対して何かを持っていることを思い出したなら、あなたはあなたの供物を祭壇の許に置き、先ず行ってあなたの兄弟と和解しなさい。そして、そのときあなたは来て、あなたの供物を捧げなさい[8]」。それはすなわち、「彼らが、怒りや見解の相違なしに、自分たちの諸々の手を神に向かって上げるためである[9]」と。ですから彼らは、次のように言う人たちです:「私たちは、私たちの戦士たる男たちの合計を集めました。そして、私たちの中に見解の異なる人は誰もいませんでした。そして私たちは供物を主に捧げました[10]」と。



[1] 2Tm.2,4.

[2] Cf.Ps.1,2.

[3] 2Tm.2,4.

[4] Nb.31,49:既述したとおり、「合計」は「統括()」も含意する者とする。

[5] Nb.31,49.

[6] Ac.4,32.

[7] Cf.Nb.28,2.

[8] Mt.5,23-24.

[9] 1Tm.2,8.

[10] Cf.Nb.31,49-50.