「一切の金の器、首輪あるいは腕輪あるいは指輪あるい耳輪あるいは編み鎖[1]」と(聖文書は)言っています。首飾りは、知恵の飾りです。実際、『箴言』の中で、知恵について次のように言われています:知恵を得た人は、「自分の首のまわりに金の首輪をつける[2]」と。腕輪と指輪は、諸々の手――それらの中で諸々の業の諸々の印が示されます――の諸々の飾りです。しかし編み鎖は、言葉と教えの諸々の結合を明示しています。

「私たちのために神を宥める目的で[3]」と(聖文書は)言っています。もしも私たちが、神は金のゆえに人間たちに好意的になるというなら、どれほど馬鹿げたことが、いや、どれほど不敬虔なことが言われているか、あなたはご覧ください。実際、そのことは善人においても悪名高いことと見なされています――もしもその人が、受け取られた金によって、より劣った人たちに満足させられるとすれば。ですから、そのことを神について考えるのは、どれほど適切でないことか。ですから、金の諸々の外形を通して魂の諸々の徳と諸々の善き業の諸々の行いを教えるこの教会的説明の理拠があると、私は考えます。それら(の徳と行い)だけが、人間たちによって神に捧げられるに相応しく、それらによってのみ神が人間たちに好意的になるのが適切です。



[1] Nb.31,50.

[2] Pr.1,9.

[3] Nb.31,50.