民数記第二十七講話[1]

イスラエルの子らの諸々の野営地について

 

 神は世界を創設するとき、人間の欲求の違いや動物たちの本性の諸々の多様性に応じて、諸々の食べ物の無数の違いを創造しました。それ故、人間だけが、動物たちの食べ物を見たとき、それは自分のためでなく、動物たちのために創造されたものだということを知るのでありません。動物たちも自分たちに固有な諸々の食べ物を認識します。たとえば獅子は別の諸々の食べ物を利用し、鹿は別の諸々の食べ物を利用し、牛は別の諸々の食べ物を利用し、鳥たちは別の諸々の食べ物を利用します。しかし人間の間にも、欲求されるべき諸々の食べ物に或る諸々の違いがあります。かなり健康で、身体の状態において壮強な人は、固い食べ物を求め、「あらゆる物を食べることができると信じ[2]」確信しています――競技者たちの中で極めて頑強な者たちのように。ところが自分がいっそう弱くて力がないと感じる人がいれば、その人は諸々の野菜を好みますが、自分の弱さのゆえに高い食べ物を受け入れません。さらにもしもある人が子ともであれば、たとえ彼が声によって指示できないにしても、事実それ自体によって、乳の食品以外は何も求めません。このようにひとり一人は、年齢に応じて、諸々の力に応じて、あるいは身体の健康状態に応じて、自分に合っていて、自分の諸々の力に相応の食べ物を探し求めます。



[1] 本講話の主要部分は民数記注解断章(現存しない)から成っている。以下省略。

[2] Rm.14,2.