19 ですから私たちは二重の説明を使いながら、朗読された諸々の住居の、この一切の系列を考察すべきです。それは、私たちの魂の有益な進歩が両者(の解釈)から導き出されるようにするためです――誤謬からの回心によって神の律法に従うこの(世の)生活が、どのように行われるべきか、あるいは、復活によって約束された期待がどれほど大きいかを、それら(の住居)から知ることによって。実際そのようにして、朗読される諸々の事柄の中に、聖霊の律法に相応しい理解が教えられると、私は思っています。すなわち、たとえば当時に、あの荒れ野の中を過ぎ越していたイスラエルの子らが留まった場所がどのような表現であるかを知ることは、私に何の利益をもたらすのでしょうか。あるいは、そのことから、読者の人たちに、そして、「神の律法を昼夜、考察する人たち[1]」に、どのような有益な進歩が与えられるでしょうか――取り分け、詳述されるべきそれらの住居に関して、それらの記述がここで再び神の諸々の律法の中に挿入されるほど大きな配慮が主にあるのを私たちが見るとき。実際、イスラエルの子らが一つひとつの諸々の場所を通って、ある場所から立ち上がり他の場所の中に留まったと言われたとき[2]、既にそれらの名前が――幾つかの箇所で変えられていたにもかかわらず――言及されていました。ところが今、もう一度、(それらの名称が)主のみ言葉を通してモーセによって書き記されることが命令されています。それゆえ、ですから、その記述がもう再び繰り返されているということそれ自体も、私たちが提案したあの説明の神秘に十分に合致しているように私には見えます。すなわち、(それらの名称は)、魂の二つの道を明示するために、二度、繰り返されています:一つの道において、肉の中に置かれた(魂は)、神の律法を通して諸々の徳の中で鍛えられ、諸々の進歩の或るの諸段階を通して上昇し、私たちが述べたように、「力から力の中へと進み[3]」、それらの進歩そのものを諸々の住居のように使います。他方、他の道において(魂は)、復活の後に諸々の天へと上昇していきますが、突然に何の困難もなく諸々の頂に登り詰めるのではなく、多くの住居と通って導き出されます。そしてそれらの(住居の)中で(魂は)、一つひとつ(の諸々の住居)を通して輝きの増大を絶えず受け取り、一つひとつの住居の中で知恵の光によって照らされて、遂には「諸々の光の父[4]」ご自身の許に到達するはずです。



[1] Cf.Ps.1,2.

[2] Cf.Ex.13,18.

[3] Ps.83,8virtusは、既述したように、「徳」でもあり、「力」でもある。

[4] Cf.Jc.1,17.