21 「そしてモーセは、主のみ言葉を通して、彼らの諸々の前進と彼らの諸々の住居を書いた[1]」と(聖文書は)言っています。彼が、それらの事柄を「主のみ言葉を通して書いた」のは、私たちが(それらを)読み、み国へと導く旅路にどれほど多くの前進と、どれほど多くの住居が私たちに差し迫っているかを見て、私たちがその道に備えるためであり、私たちに差し迫る旅路を考えることによって、私たちの人生の時間がだらしなく無為に消費されることを許さないようにするためです;私たちがこの世の諸々の虚栄の中に暮らし、視覚や聴覚や、あるいは、触角と嗅覚と味覚も許に来る一つひとつのものに喜んでいる間に、日々が過ぎ去り、時間が経過しないようにするためです。そして、私たちが差し迫る旅路の全行程を説明することに取りかかり、途中で力尽きてしまわないようにするためであり、また、(目的地に)到達することができなかった或る人たちについて――「彼らの諸々の肢体は荒れ野の中に落ちていた[2]」と――述べられていることが私たちに起こらないようにするためです。とにかく私たちは、旅をしています。それゆえ私たちがこの世界の中に来たのも、私たちが「力から地下へ[3]」と過ぎ越すためであるとともに、諸々の地上的なもののゆえに地の中に留まらないようにするためです――次のように言っていた人と同じように:「私は諸々の納屋を破壊し、そして他のもっと大きな諸々の納屋を建てよう。そして、私は私の魂に言おう:魂よ、お前は多くの諸々の善きものを多年にわたり貯えて持っている、お前は食べ、食べ、喜べ[4]」と。ですから、主がその人に対してと同様に、私たちに対しても次のように言わないようにしましょう:「愚か者め、この夜の中で、お前の魂はお前から取り去られるだろう[5]」と。主は、「この昼の中で」とは言わずに、「この夜の中で」と言いました。なぜなら彼も、「エジプト人たちの初子たち[6]」と同じように、「夜の中で」滅ぼされるからです――世界とその諸々の闇を愛し、「この世界の諸々の闇の支配者たち[7]」の参与者になった者として。ところで、その世界が諸々の闇と夜と呼ばれるのは、無知の中に生活して真理の光を受け入れない人たちのせいです。そのような人たちが、「ラメセス」から進歩せず、「スコト」に過ぎ越さない人たちです[8]



[1] Nb.33,2.

[2] Cf.He.3,17.

[3] Cf.Ps.83,8.

[4] Lc.12,18-19.

[5] Lc.12,20.

[6] Cf.Ex.12,29.

[7] Cf.Ep.6,13.

[8] Cf.Nb.33,5.