23 しかしながらあなたは、次のことを知っておくべきです:すなわち、エジプトの中で行われた過越祭の後で、それがもう一度、荒れ野の中で配慮されるのを私たちは見出します――それは、律法が与えられたときです[1];そして、私たちが既に考察しましたように、さらに別の過越祭を諸々の数の中に見出します[2];そして、それらの後では、約束の地の中を除いては、いかなる場所でもそれが行われないのを私たちは見出します。したがって、こうして、過越祭の後に続く日――それは諸々の種なしパンの最初の日です――すなわち「第一の月の第十五日に、イスラエルの子らは、いと高き手の中で、すべてのエジプト人たちの目前で、ラメセスを出発した[3]」と(聖文書は)言っています。「いと高き手」とは何でしょうか。他の箇所でも(聖文書は)言っています:「あなたの手が高々と掲げられますように[4]」と。人間的な業もなく地的な業もなく、神的な業があるところでは、「いと高き手」という名が挙げられます。実際、手を通して業がしばしば理解されることは、既に述べられました。ですから、「いと高き手の中で、すべてのエジプト人たちの目前で、彼らは出発しました[5]」。



[1] Cf.Ex.13,3s.

[2] Cf.Nb.9,1s.

[3] Nb.33,3.

[4] Ps.9,12.

[5] Nb.33,3.