33 こうして「彼らは、諸々の苦みの辺りに泊まりました[1]」。あなたは、「諸々の苦味」と聞いて、びっくりしたり、恐れたりしないでください。なぜなら「一切の教育は、当面は、甘く見えず、苦く見えるからです。しかし、それは後に、それによって鍛えられた人たちに、正義のきわめて甘くきわめて平和的な実りをもたらします[2]」。それは、使徒が教えておいるとおりです。もちろん彼らは、「苦菜とともに種なしパン[3]」を食べるようにも命じられています。また私たちは、「諸々の苦味」を通って過ぎ越すのでなければ、約束の地に到達することは不可能です。実際、医者たちが、元気のない人たちの救いと健康を図って、何らかの諸々の苦味を諸々の薬に挿入するように、私たちの諸々の魂の医者は、救いを図って、私たちが様々な諸々の試練の中で、この生活の諸々の苦味を堪え忍ぶように望んでいました。なぜなら彼は、この苦味の終局は、私たちの魂のために、救いの甘味を獲得することを知っているからです。逆に、身体的な快楽の中にある甘美さの終局は、あの金持ちの諸々の例が教えているように、諸々の罰の地獄の中での苦い終極をもたらします。ですから、徳の旅路を歩むあなたは、「諸々の苦味の辺りに泊まること[4]」を避けないでください。なぜならあなたは、イスラエルの子らと同じように、そこからも出発しなければならないからです。



[1] Nb.33,8; cf.Ex.15,23:既述のように、訳文中の「諸々の苦味」は、「苦い水」を飲むことを強いられた「マラ(苦い)」をさす。

[2] He.12,11.

[3] Ex.12,8:「苦菜」の原語は、「苦味」の原語と同じ、amaritudoである。

[4] Nb.33,8; cf.Ex.15,23.