34 「彼らは、諸々の苦味から出発し、エリムに来た[1]」と(聖文書は)言っています。エリムは、「諸々の水の十二の諸々の源と諸々のヤシの七十の諸々の木がある[2]」ところです。諸々の苦味の後で、諸々の試練の諸々の辛酸の後で、なんと快適な諸々の場所があなたを迎えるかを、あなたはご覧ください。もしもあなたが諸々の試練の諸々の苦味を堪え忍ばなかったなら、あなたは、諸々のヤシの許に来なかったでしょう。また、もしもあなたが、まず、悲しく辛酸な諸々諸の事柄を乗り越えなかったなら、諸々の源の甘美さの許に来なかったでしょう。もちろんそれによって、旅路の終極と、すべてのものの完成がそれらの中にあるのではありません。諸々の魂の管理者である神は、旅路そのものの中で、諸々の労苦に、或る諸々の冷涼さを差し挟みます。それらによって魂は、元気を取り戻し体力を回復し、(前よりも)いっそう迅速に、の頃胃の諸々の労苦へと戻っていくでしょう。

しかしエリムは、牡羊と解釈されます。牡羊たちは、(羊の)群れの指導者たちです。では、キリストの群れの指導者たちは、これまた「十二の源」である使徒たちでなければ、誰でしょうか。しかしながら、私たちの救い主なる主は、彼ら十二人を選び出しただけでなく、「他の七十人」も選び出しました。そのようなわけで、「十二の源」ばかりでなく、「諸々のヤシの七十の諸々の木」が存在すると、(聖文書に)書かれています。実際、彼らも使徒たちの名づけられています。それは、パウロ自身も、救い主の復活について説明するとき言っているとおりです:すなわち、「(すく主は)彼ら十一人に見られた。次いで、すべての使徒たちにも見られた[3]」と、(彼は)言っています。彼はその中で、あの十二人を除いて、他の使徒たちもいることを明示しています。ですから、苦味の後にこの快適さが、労苦の後にこの休息が、諸々の試練の後にこの恵みが、あなたを迎えます。



[1] Nb.33,9.

[2] Nb.33,9.

[3] Cf.1Co.15,5,7.